いつまでも未完成日記

田舎暮らしの国立大学大学院生。
日々を少しずつ綴っていきます。よろしくお願いします。

【読書録】草枕 170504

最近は時の淘汰に打ち勝ち、未だなお良いとされる本を読み始めた。就職活動を経て「人に伝わる日本語を書く・話すこと」の難しさを感じ、その改善のために昔ながらの上手な日本語をインプットしようと読書を始めた。


その中でも「草枕」という夏目漱石の小説はなかなか読むのに時間がかかったが、いいなと感じることが多い作品だったので、ここに残す。



【非人情】



これは、面白いと思った考え方を表すキーワードだ。一見冷淡な人を想像してしまうが、そういう意味ではない。これは世の中の出来事を、自分自身さえも物語の中での出来事として考え、すべてを客観的に捉えるという価値観を示す言葉だ。自分自身に起こることさえも、完全な客観で捉えるというのは容易ではないだろう。


しかし目の前の出来事に対する感情に左右されず、出来事の本質をとらえるためにとても参考になる価値観だった。


例えばしんどいことやうれしくないことが起こった時に、それらの本質を捉え、今後の自分にどのように影響してくるかを考えることができれば、もはや起こった出来事はネガティブなことですらなくなっている。


すなわち、前向きに物事を捉えることができる。


結局、いろんなことが起きようとも、世の中は気の持ち様一つでどうでもなる。
どう感じるかは大切だけど、物事の本質ではない。




最後に、以下に印象的だった文章を羅列する。
個人的なメモである。


(9)あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするがゆえに尊い。


(11)月給の補いにもならぬこの景色が景色としてのみ、余が心を楽しませつつあるから苦労も心配も伴わぬのだろう。


(15)普通の小説家の様にその勝手なまねの根本を探って、心理作用に立ち入ったり、人事葛藤の詮議立てをしては俗になる。動いてもかまわない。画中の人間が動くとみれば差し支えない。画中の人物はどう動いても平面以外に出られるものでない。平面以外に飛び出して、立法的に働くと思えばこそ、こっちと衝突したり、利害の交渉が起こったりして面倒になる。面倒になればなるほど美的に見ているわけにいかなくなる。これから会う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気がむやみに双方で起こらないようにする。そうすれば相手がいくら働いても、こちらの懐には容易に飛び込めないわけだから、つまりは画の前へ立って、画中の人物が画面の内をあちらこちらと騒ぎ立てるのを見るのと同じわけになる。間三尺も隔てておれば落ち着いてみられる。危なげなしにみられる。言を換えて云えば、利害に気を奪われないから、全力を挙げて彼らの動作を芸術の方面から観察することができる。余念もなく美か美でないかと鑑識することができる。


(17)羽織はとくに濡れ尽くして肌着に浸み込んだ水が、身体の温もりで生暖かく感ぜられる。気持が悪いから、帽を傾けて、すたすた歩行く。
 茫々たる薄墨色の世界を、幾条の銀せんが斜めに走るなかを、ひたぶるに濡れていくわれを、我ならぬ人の姿と思えば、詩にもなる、句にも詠まれる。有体なる己を忘れ尽くして純客観に眼をつくる時、始めてわれは画中の人物として、自然の景色と美しき調和を保つ。只降る雨の心苦しくて、踏む足の疲れたるを気に掛ける瞬間に、われは既に詩中の人にもあらず、画りの人もあらず。依然として市井の一豎子に過ぎぬ。雲煙飛動の趣も眼に入らぬ。落花啼鳥の情けも心に浮かばぬ。蕭々として独り春山を行く吾の、いかに美しきかは尚更に解せぬ。初めは帽を傾けて歩行た。後には唯足の甲のみを見詰めてあるいた。終りには肩をすぼめて、恐る恐る歩行た。雨は満目の樹梢を揺かして四方より顧客に逼る。非人情がちと強すぎた様だ。


(57)世の中は気の持ち様一つでどうでもなります。


(77)東西のある乾坤に住んで、利害の綱を渡らねばならぬ身には、事実の恋はあだである。目に見る富は土である。握る名と奪える誉とは、小賢しき蜂が甘く醸すと見せて、針を棄て去る蜜の如きものであろう。所謂楽しみは物に着するより起るが故に、あらゆる苦しみを含む。但詩人と画客なるものあって、飽くまでこの待対世界の精華を嚼んで、徹骨徹髄の清きを知る。霞を餐し、露を嚥み、紫を品し、紅を評して、死に至って悔いぬ。彼等の楽しみは物に着するのではない。同化してその物になるのである。その物になり済ました時に、我を樹立すべき余地は茫々たる大地を極めても見出し得ぬ。・・好んで高く標置するが為ではない。只這裏(しゃり)の福音を述べて、縁ある衆生を麾く(さしまねく)のみである。有体に云えば詩境と云い、画界と云うも皆人々具足の道である。春秋に指を折り尽くして、白頭に呻吟するの徒と雖も、一生を回顧して、閲歴の波動を順次に点検し来るとき、甞ては備考の臭骸に洩れて、吾を忘れし、拍手の興を呼び起すことができよう。できぬと云わば生甲斐のない男である。されど一事に即し、一物に化するのみが詩人の感興とは云わぬ。


(79)普通の同化には刺激がある。刺激があればこそ、愉快であろう。余の同化には、何と同化したか不分明であるから、毫も刺激がない。刺激がないから、窈然として名状しがたい楽しみがある。風に揉まれて上の空なる波を起す、軽薄で騒々しい趣とは違う。目に見えぬ幾尋の底を、大陸から大陸まで動いている洸洋たる蒼海のの有様と形容することができる。只それ程に活力がないばかりだ。然しそこに反って幸福がある。偉大なる活力の発言は、この活力がいつか尽き果てるだろうとの懸念が籠る。常の姿にはそう云う心配は伴わぬ。常よりは淡きわが心の、今の状態には、わが烈しき力の銷磨しはせぬかとの憂を離れたるのみならず、常の心の可もなく不可もなき凡境をも脱却している。淡しとは単に捉え難しと云う意味で、弱きにすぎる虞(おそれ)を含んではおらぬ。冲融とか澹??とか云う詩人の語は尤もこの境を切実に言いおおせたものだろう。・・われ等が俗に画と称するものは、只眼前の人事風光をありのままなる姿として、若しくはこれをわが審美眼に通して、絵絹の上に移したものに過ぎぬ。・・わが感じたる物象を、わが感じたるままの趣を添えて、画布の上に淋漓として生動させる。




これまで日本語は自由に扱えていると思っていたが、案外自己満足の範囲で日本を書くことを終えてしまっていることが多い。わかりやすい文章を書くという意識は常に持ち続けたい。