いつまでも未完成日記

田舎暮らしの国立大学大学院生。
日々を少しずつ綴っていきます。よろしくお願いします。

170723 本田選手 パチューカ移籍 すごいと思ったこと

深夜のスポーツ番組で本田選手のパチューカ移籍を取り扱っていた。


自分の視点ですごいと思ったことがあったので、メモ。


まず選手としてのピークを過ぎてなお、言い訳ではなく挑戦する姿を示している。ミランのスタッフも結果を残せていなくても、練習中での姿はプロそのものだと認めている。考えてみれば、日本代表ではスタメンが当たり前の時代があった中で、最近はベンチにいることが多いという現状は、私なら受け入れがたいもので目を向けたくないと思う。
過去に成績を残してきても現状に満足しない姿勢、さらに現状を好転させるためにできることを実践する姿勢はやはり一流だと思う。


こう考えると、人気の出る人は結果を出すことで注目されているが、その下にある努力・姿勢こそ評価されるべきなのではないかと感じる。もはや、その努力や姿勢は当たり前のものとして昇華されているのであれば、その価値を私は再認識して取り入れたいと思う。


私の現状は’楽しいことをしよう’とその時面白そうだと感じたことに手当たり次第に手を出している。それも必要なこと。そのおかげで視野は広がり、将来したいこと・なりたい像のシルエットは見えつつある。しかし、その先のステップである一つ一つを深めることができていない、下手だ。また研究でも苦しい展開に差し掛かるとそれを回避する・別の楽しいことを見つけることで対処している。


本田選手も楽しい・したいことをしているのだろう。しかし、例えば代表でスタメンではないという苦しい状況においてメキシコのサッカーを取り入れることで打開しようとしている。


この対比はわかりやすい。人としての特性の違いもあるだろうが、本田選手は一つのことを積み重ねを努力だと捉えていないだろう。私はそれを努力だとみるから、すごいことだと思い、なんなら現に今日記にしたためている。


もしかしたら、本人にとってはこの積み重ねは苦しいことではないのかもしれない。一般的にはヨーロッパサッカーで注目を浴びていて、それよりも世間的にレベルの下がるリーグを選択することは苦しいことのように思える。実際、レアルで活躍したかったと言っていた。だが、このメキシコ行きがまたある種の楽しみだとしたらどうだろう。これまでにオランダ・ロシア・イタリアでプレーし、今度はメキシコで新しいサッカーに触れることができる、さらに吸収できると考えるとワクワクしそうなものだ。


このメキシコ行きを前向きな挑戦として、堂々としている本田選手の姿に感銘を受けた。


さて、それでは私の現状はどのように変えられるだろうか。決して悪いわけではない。ただ現状に満足しない姿勢を学ぶとすれば、どのようにさらに好転させるか。これはだれでも考えられるはずだ。


中途半端をやめたいかな。割と初動はいいが、その後続ける動きより新たな初動が目立つ。
〇関心事への様々な初動が私の長所だとすれば、それを積み重なるようなシステム・ルールをつくる。・・・すべて一つのノートに軌跡を残しておく。あとから見てもわかる程度に丁寧に残す。など
「どのように現状をさらに好転させるか」という問いは常に問う。現状に満足して妥協しがち。


なぜ頑張らんとあかんのではなく、気張らなければ後退していく。社会には死に物狂いで日々を過ごす人がたくさんいる。それに比べると私は何というかぬるい。考え方がぬるい。だけど、これは楽しいことをする・しないとは全く別のことであることもしっかりと認識しないと。




頑張れ、本田選手!これからも注目してます。












170717 本当の豊かさってなに?

昨日まで広島の大崎上島という離島に1泊2日で行ってきましたー~
最近活力のある若い世代が集まっているという話を行く前に聞いていたが、期待を裏切らない素敵な場所でした。


したことは、空き家の改修、子供とハイキング・竹で民族楽器作り、流しそうめん、海遊び、町散策です。


内容が濃すぎて帰るころにはヘロヘロでしたが、有意義な休日の使い方となりました。2週に1回はこういう休日の使い方をしたい。


今回でできるようになったことは、建物水平取り、棚づくり、竹でディジュリドゥ(アボリジニの民族楽器)作り・木琴づくり、流しそうめんです。
物の仕組みを考えるところから自分たちでやったからこそ、作ろうと思えば作れるんだという実感がわきました。あとは材料と工具・場所さえあればDIYに火が付きそうです!


こうした体験ってとっても価値のあることのように思います。
最近モノの売買よりコトの価値交換が行われているといわれるが、それを結局お金でなされているように思っています。できれば、物々交換ならぬコトコト交換の仕組みをつくれると個人的な理想的な社会の形です。


あくまでも人の本来の暮らしに根付いたうえでのITの利用ができればうれしい。
だってバーチャルの世界で話が進みすぎて置いてけぼりの人ってたくさんいると思うし。


お金は便利なものだけど、交換できるから価値のあるモノ。あくまでも媒体。
だとすれば、本当に価値のあるモノとは。
それは人によって違うけど、本当に価値のあるモノ、豊かさはそこにある。
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古い建物があるような地域には空き家もいくつかあって、中には2階の壁を取り外せるような家も。集まってくれる仲間と共に家やモノを直しながら暮らすことは私にとっての豊かさの一つのあり方です。





170706 未来にワクワクする=自分の可能性を信じる

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先日、後輩と二人でそれぞれがまったく関係のなかった友人を一人ずつ呼び、計4人で飲み会をするという集まりを開いた。普段は初対面では皆が楽しめるように聞く側に回るが、最近の心のドロッとした部分を初対面の方もいる前で披露してしまった。


いうならば、思考のジレンマだ。最近は自身が満たされるだけでは生きる価値がないのではないか、自身の活動やかけた時間が社会やせめて身の回りの方に良い影響として還元される必要があるのではないかという問い・期待に対して、現在の自分ができていないことへの罪悪感のようなネガティブな気持ちが生じていた。還元という表現には、自身が今ここにあることへの感謝が込められているのだろう。24歳にもなり、未だ守られた場所にいさせていただいているにもかかわらず、そこでの内容はお粗末なものだという感情がある。その飲み会では、「早く社会に出たい」と言ったが、それは真にその環境のありがたみがわかっていないから出たのではないか。


結局、意味のあることをしようと思うが、いざ物事を行う際にその物事をする意味を言葉で表せるくらいに明確に示すことができず、動き出せずに終わってしまう。臆しているのか。限られた時間の中で無数のような枝のように可能性が広がって、手を出しても枝の先まで知り尽くす気力が自分にはないのかもしれない。その点に関して自信がない。


まず初めから枝の先までイメージできるわけはないと記述していると思う。さらに知るにしたがって枝の先はさらに細分化していくだろう。「院生のころは研究をするとよい。知るほどにさらにわからないことができてくる。それを追求する訓練だ。」と言われたことが脳裏をよぎる。
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はなからそんな途方もなく遠い見えない枝先に想いを馳せて、自分の実力のなさに落ち込み、自分の可能性をあきらめて、結局どの枝先へも行こうとせず、時が過ぎ環境が変われば自身も変わると受け身な姿勢を取っているのが今の私だ。


しかし、現にそんな自分が嫌だ。そんな自分は魅力的でなく、今を楽しめていない。
先日参加したイベントで、尊敬できる大人に「明日が来ることを当たり前と思うな。今したいことをしろ。」と言われた。


今の憂鬱は自分がしたいことをできていないから、生まれているんだと思う。
冒頭の飲み会では、「自分を満たさねば、他人を満たすことができない。」と言われた。
どれも的を得ている。
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ここ2年の自身の憂鬱の理由が最近になって明らかになってきたように思う。
「生き生きとした顔をしよう」という合言葉を作った。そうすると、生き生きとした顔をするために何をしようかと考えるようになり、毎日は色のある生活に近づいたような実感を得ている。


なぜかはわからなかった。


なぜそれだけで、前を向いて歩きつつあるのか。


何かをしようと試みることで少しでも新しい自分になっているからだ。


私の「生き生き」はすなわち、「自分自身の可能性に期待すること」だった。


成せば、なりたい自分になれると信じ、
その成長過程にいることで自分の未来にワクワクして、今を生きることができる。


自分自身に伸びしろを感じる生き方をしたい。


それはワクワクであり、義務ではなく、一種の楽しみである。努力では決してない。すべてをしたくてするはずだ。


自分自身の可能性を信じることができないことがもっとも罪深い。