いつまでも未完成日記

田舎暮らしの国立大学大学院生。
日々を少しずつ綴っていきます。よろしくお願いします。

170706 未来にワクワクする=自分の可能性を信じる

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先日、後輩と二人でそれぞれがまったく関係のなかった友人を一人ずつ呼び、計4人で飲み会をするという集まりを開いた。普段は初対面では皆が楽しめるように聞く側に回るが、最近の心のドロッとした部分を初対面の方もいる前で披露してしまった。


いうならば、思考のジレンマだ。最近は自身が満たされるだけでは生きる価値がないのではないか、自身の活動やかけた時間が社会やせめて身の回りの方に良い影響として還元される必要があるのではないかという問い・期待に対して、現在の自分ができていないことへの罪悪感のようなネガティブな気持ちが生じていた。還元という表現には、自身が今ここにあることへの感謝が込められているのだろう。24歳にもなり、未だ守られた場所にいさせていただいているにもかかわらず、そこでの内容はお粗末なものだという感情がある。その飲み会では、「早く社会に出たい」と言ったが、それは真にその環境のありがたみがわかっていないから出たのではないか。


結局、意味のあることをしようと思うが、いざ物事を行う際にその物事をする意味を言葉で表せるくらいに明確に示すことができず、動き出せずに終わってしまう。臆しているのか。限られた時間の中で無数のような枝のように可能性が広がって、手を出しても枝の先まで知り尽くす気力が自分にはないのかもしれない。その点に関して自信がない。


まず初めから枝の先までイメージできるわけはないと記述していると思う。さらに知るにしたがって枝の先はさらに細分化していくだろう。「院生のころは研究をするとよい。知るほどにさらにわからないことができてくる。それを追求する訓練だ。」と言われたことが脳裏をよぎる。
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はなからそんな途方もなく遠い見えない枝先に想いを馳せて、自分の実力のなさに落ち込み、自分の可能性をあきらめて、結局どの枝先へも行こうとせず、時が過ぎ環境が変われば自身も変わると受け身な姿勢を取っているのが今の私だ。


しかし、現にそんな自分が嫌だ。そんな自分は魅力的でなく、今を楽しめていない。
先日参加したイベントで、尊敬できる大人に「明日が来ることを当たり前と思うな。今したいことをしろ。」と言われた。


今の憂鬱は自分がしたいことをできていないから、生まれているんだと思う。
冒頭の飲み会では、「自分を満たさねば、他人を満たすことができない。」と言われた。
どれも的を得ている。
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ここ2年の自身の憂鬱の理由が最近になって明らかになってきたように思う。
「生き生きとした顔をしよう」という合言葉を作った。そうすると、生き生きとした顔をするために何をしようかと考えるようになり、毎日は色のある生活に近づいたような実感を得ている。


なぜかはわからなかった。


なぜそれだけで、前を向いて歩きつつあるのか。


何かをしようと試みることで少しでも新しい自分になっているからだ。


私の「生き生き」はすなわち、「自分自身の可能性に期待すること」だった。


成せば、なりたい自分になれると信じ、
その成長過程にいることで自分の未来にワクワクして、今を生きることができる。


自分自身に伸びしろを感じる生き方をしたい。


それはワクワクであり、義務ではなく、一種の楽しみである。努力では決してない。すべてをしたくてするはずだ。


自分自身の可能性を信じることができないことがもっとも罪深い。